般若心経のところで使われて居る語句が、はっきりわからないので貫道老師にお聞きしました。
ワープロできれいに整理して答えて下さいましたので、そのまま載せます。
お聞きしないと正しい処が分らないですね。勝手に文脈の中で理解してしまいます。
もったいないのでご紹介します。


【小隠は陵藪に隠れ大隠は市に隠る。】 「井上義衍語録」P244

陰は誤りです、 隠居の隠です。 出世を求めず人目から隠れる。
韜晦 = とうかい。 自分の才能・地位・身分行為などを包み隠すこと。
十牛の図、 の 10、 入垂手に当たる、 本来の様子は初めから探す用がない。 平凡。
特別視されるようなことが有る間は問題です (法らしいものや、 悟りらしい物がちらつく。)


【荒磯の波もえ寄せぬ高岩にかき(牡蠣・書き)もつくべきのり(法・海苔) ならばこそ】P244
教外別伝を詠むと有ります。 道元禅師の詠まれた句です。人の寄りつけないような所、人慮思考では無いものの真相が、 目の当たりに展開されている。 不立文字、 教外別伝の処、 今この戴いている梅ジュウスの味です。 飲んでいるときにこそ真味がする。 本当には皆やれているし、 知ってます。ソンナコトが、 と思い描いている世界にいるので気づきませんね。


【もし人この事如何と問わんと擬すれば、身を分かって両断となる。】P242
 
思考に渡れば二つになると言うことですね、 分別です。 一つ物を二つに分けないと分からないように勉強しています。 両手を合わせた其の合わさっているところはどうなってますか?と伺うと開いてみるから、 一緒になっている処を見ることができないようなことですか。


『一種通ぜざれば、 両所に功を失す』せっかく、今、真如自体の、 仏性自体の活動をしいているのに、 有無の二見に渡ると皆傷 になってしまう。 有に対しても、無に対しても、 皆役に立たないようになる。 人の見を用 るとそういう大きな誤りが起きるんです。 其の様子を重ねて、
【『有を遣れば有に没し、 空に従えば空に背く。」】
捨てようとするだけ有るんです。 捨てる手続きを用いるだけ、 有るんでしょう。 そうかと って 「空」になろうと思えば、 それだけ 「空」に背く。 本当の「空」では無いんです。 概念的な取り扱いとしての「空」ですから、おおよそ自分の実物とは縁遠い。 そういうことが人間にはなかなか分からんのです。 考え方と、考え方で無い今の自分自身との区分けがハッリせんからです。 坐禅をすると、 其の区分けが、 自ずからハッキリする物です、 否応なしに。
遣れば、【取り扱えば。 または、使えば。】 ですかね。 取り除くも当たらずとも遠うからずでしょうか。