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21.2.16

「我が法門は先仏より伝授す。禅定精進を論ぜずして仏智見に達す。」
石頭希遷禅師

まあそう言う様な事が書いてあります。禅定精進を論ぜず。禅定って言うのは、今言った様に、坐禅の形がどうのこうのとかって言って、それから精進はそれをずーっと続けて行くってい言う様な事でしょう。一つには時間の長短なんかも精進するって一応理解して良いのでしょう。だけども、長く坐るとかきちっと形を整えたままいるって言う様な事が問題ではないとおっしゃってるんですね。

どうでも良いとは言ってませんよ。どうでも良いとは言ってない。で、それが一番大事な中心になる事ではない。論ぜず。じゃ何かったら、仏智見に達すと言う事は、仏様が悟られた自分自身の真相がどう在るかって言う事に本当に触れて、その確かさが自分ではっきりした、そう言う風になるって言う事が大事なんだとおっしゃってるんですね。

自分自身の真相って誰でも在る訳でしょう、最初から。これからじゃなくて。自分自身の真相が有りながら自分自身の様子が自分自身ではっきりしないって言う事位寂しいって言うかもったいないって言うか愚かって言うか、色々な言い方がありますけども、自分自身の事を自分自身で知らないって言う事が、色々な事に出会った時に問題の解決する時にですね、揺らぐ一番の原因なんでしょう。自分の中から揺らぐんでしょう、見た物聞いた物触れた物。

真相としては、皆さんきちっとしてるんだけど、きちっとしてるものに対して、これでいいのかしら、これ本当なのかしらんて、そう言う思いがふっと起ると、その思いを中心にして尋ねるようになるのでしょう。そっちじゃないじゃないですか。そのこれで良いんだろうかって言う思いが出た時に、そう言う事を本当に使わずに、この自分自身の触れている様子そのものに居てみるって言う事が坐禅の在り方なんでしょう。ねぇ。

          (井上貫道老師 2021.1.24 高知ZOOM坐禅会でのご提唱の中でのお話)