貫道老師が洞山大師の過水の偈を宝鏡三昧の提唱の中で話されました。その書き起こしです。最後の四行は、提唱ではなく別の機会にお尋ねしたものです。
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過水の偈 音声 Voice

切忌随他覓
超超与我疎
我今独自往 
処処得逢渠
今正是我
我今渠不是
応須與磨会
方得契如如

切(せつ)に忌(い)む他に随って覓むることを
超超として我と疎なり
我いま独り自ら往く 
処処渠に逢うことを得
渠今正に是我
我今これ渠にあらず
応に須く與磨(よも)に会(え)して
方に始めて如如(にょにょ)に契(かな)得(う)べし

宝鏡三昧の一枚目の真ん中辺にですね、「宝鏡にのぞんで形容相見るがごとし、「汝渠にあらず、渠今正に是汝」と言う様な句がありますが、ここら辺のがですね、洞山過水の偈といわれて、洞山大師が水たまりをまたいで渡ろうとした時に、お悟りを開いて、その時の自分の心境を表わした過水の偈と言う物がありますが、その過水の偈の中の一部分がここに重複して引いてあるのでしょうね。

切(せつ)に忌(い)む他に随って覓むることを」
と最初に出て来ます。どういう事かって言うと、「十分気をつけてくださいよ。」と言う事よね。切に忌む、間違わない様に。他に随って覓むることを。この勉強をするのに、他の人の用が無いと言うことです他に随って覓むるなかれって言う事は。本当に坐っている時でもそうでしょう。自分の坐ってる様子に用があるのであって。他の事を眺めて何か研究するとか、学ぶって言う事じゃないですね。切に忌む。もしそう言う事をすると、ということでしょうが、その続きに超超として我と疎なり」とある。自分を相手にしないで他の物を相手にしたら、それは勿論そうでしょう。自分とは関係ない位縁遠いものに、疎いものになるでしょう。我と疎なり。もう初めっから自分の事をほっぽといて居るって言う事は、学道、道を学ぶ上に於いて、もう最悪のパターンと言うことでしょう。こう言う事が過水の偈、過は過ぎるです。水を過ぎる、過水の偈、の最初に示されています。非常にやっぱり重要な事だと思うね。その後に、我いま独り自ら往く、処処渠に逢うことを得たり」って言う句が続きますが、我いま独り自ら往く」一日中そうでしょう。自分の様子だけでしょうが。何処へ何をしていても、何処で何をしていても「処処渠に逢うことを得たり」自分の真相ばかりです。渠、渠っていうのは、皆さんが本当に知りたいものでしょう。自分自身の真相でしょう。そう言うものを指す言葉でしょう。だけど今迄はやっぱり向こうに有る物を眺めている様な気配が自分に有ったに違いない。だけども水溜りを渡った時に、自分の様子が水溜りの上に映っていたのでしょうね。
「渠今正に是我」  皆さんが対象物だと見てる物がこの私。山や向こうの人だと見てる物が自分の真相、私、本来の面目と言っているものです。一般にはそう捉えていない。只、向こうに有る物がそう見えてるだけ。
「我今これ渠にあらず」 今迄向こうにあると見えたり、思っていた物事が対象物ではなくなった。
「応に須く與磨(よも)に会(え)して」
 そこに自他の一線が分け隔ての無い活動をしている。初めから分け隔ての無い活動をしている。「会して」は理解する事ではなく、実際にそうなってること。
「方に始めて如如(にょにょ)に契(かな)得(う)べし 」これで、理解を超えると言う事がある。ものと一緒になったらどうなるかは理解しているが、理解と実際は内容が違う。分け隔ての無い状況は、ああ成ってる、こうなってると言う物は出て来ない。眺めるものがある間は本当に一つになるとは言えない。実際の内容にいる、それが「如如(にょにょ)に契(かな)得(う)」時の在り様。

Tozan