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有名な言葉です。ネットでも解説があります。

禅語は、祖師方が師との問答で悟りに至る機縁としての物が残されて、その中から日常語に取り入れられています。

表面上の意味が分る事より、明眼の老師方の提唱の中で、学んだ方が良いようです。

以下は、井上貫道老師のお兄様で、故)井上義寛老師の提唱からの抜粋です。少し長いですが前段も載せます。

 師、南泉に問う、如何なるか是れ道。

泉云く、平常心是れ道、

師云く、還って趣向すべきや否や。

泉云く、向わんと擬すればかえってそむく。

師云く、擬せずんば争(いか)でか是れ道なることを知らん。

泉云く、道は知にも属せず不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不擬の道に達せば、猶太虚の廓然(かくねん)として洞豁(とうかつ)たり。豈に強いて是非すべけんや。

師、言下に於て頓悟(とんご)す。玄旨を得、心ろう月の如し。

 

「エー是だけの事ですけれども。何時も申し上げてる様に、こういう言葉を外にするんじゃなくて、その事が自らの上の、その真相である事の方に、目を行ってほしいですね。どうしても外のものを知ろうとしたいです。不思議に。そう言う様な事じゃないんですけども。つい思考を持ってすぐ測りたいと言うか、そう言う習慣性というか、そう言う道具立てのものになってしまったと言う事ですね。物心ついてから、すぐそう言う事に気がつかなかったと言う事です。認めたものの方が本当で、認めなかったら嘘の様に、皆こう思って来たと言う事です。そう言う世界では全くないんです。

で、今日の、この趙州と南泉と言う方が居りますけども、趙州と言う方や何かの話も、しょっちゅう皆さん聞いておりますけれども、このまあ十八歳で気がつかれたと言う様な事が、こう一度あったと言う様な事があるんです。それでいて、此処でこう言う問題が出て来たと言うのは、如何いう事かと言う事です。大変な大きな間違いがあったと言う事に気がつかれてるんです、趙州と言う方が。

皆、良かった、こうだと言う様なものを、どうしてもこう握りたくなるんです。それが要らんと言う事に気がつかないと言う事は大変な過ちなんですよ。本当に。だからそう言う事がね、気がつかれないと言う事です。ですから、そう言う気がついたと言う様な事がね、気がつく用がないと言う事を知りつつ、気がついた事を自らこう、自分自身が自覚をしたと言う、そう言う過ちをしてるんです。自分が自覚した。
自分の無い事に一たび気づいたのにも拘らず、自分が気がついて、こうだったと。それが抜けないもんですから、必ず途中で事に当たると、芽を吹き出して来ます。困って来るんですよ。そう言う処をね、この語録、趙州禅師の語録言うのを、ここ持ち出されていると言う事は、大変な事なんですね。

ですから、この南泉ちゅうのは、趙州のお師匠さんです。そこにおいて一度そう言う事、十八歳、一たび気がついた様子がはっきりしている、してるんですけれども、それに離れてしまわれて、自分のもので歩み出したものですから、皆自覚したんだちゅうて、私が気がついたんだと言う事を持って回りだしたから、分らなくなって来た。そう言う事じゃないですね。

ですから、折角そう言う事に気がついたものを、それだけで済まなかったと言う事です。握ってしまったと言う事です。それが極、非常に大変な事です。だから困りきって、どうしたら良いかちゅうて、再参をされている。再び南泉にね、参禅をされている処です。

「で、問うのが、「如何なるか是道」と、こう問われてる。此処の処が大変な事です。これ何か道と言われる様な事柄でも、知らない人だったらね、道といわれりゃ、道と言う事だけで、それで済んでると思うんですけれども、道と言う事を色々巡らすか、必ずそうです。そこに、もう既に隔てを生じてると言う事があるじゃないですか。
ですから、そう言う事を聞かれてね、どんな様子が、道ですかと言う事を、趙州が南泉にこう問われてますけれども、ね、南泉自体がこういわれるのに、「平常心是道」ちゅうて、こう言う言葉、本当は要らん位です。ほんとに。そうでない時がないと言う事でしょう。平常心是道と言う事は。説明も道理も要らんのに。このまま本当にいきさえすりゃ良いんです。「平常心是道」本当にそれだけになって、それに一念心も疑義を生じなかったら終わりじゃないですか。
だけど、すぐそれ取り扱うじゃない。聞いた事に対して。平常心と言うと、自分ですぐ何か描きだして。何か面白そうな事を立てるじゃない。平常心なんて言ったって、そんな事じゃ全くないです。人が考えてる様な様子じゃない様子です。あーのこーのと言う事が。一々そうでない事が無いでしょうと、こうやって示されている。聞いた様にもうそれで済んでるでしょう、ちゅう事でしょ。平常心是道、何が不足なんですか。だけど、皆それじゃすっきりしないじゃないですか。何故そう。そのもの自体に本当にならん。成ってないからでしょう。必ず取り上げてる。持ち物を持って測ってるでしょう。そこに偉い距離があると言う事に、こう気がつかなければならん、と言う事です。大変な事ですよ」

(ちなみに、義寛老師は、子供に「和尚さん本当のことって何ですか。」と聞かれて答えられなかったそうです。それで猛烈に修行して、100日間で大悟に至った方だそうです。どなたかが、ブログで書かれていました。
義寛老師の提唱録をご覧になって、貫道老師が、「兄は良く分った人だったねぇ。」と言われていました。

こちら↓は提唱全文と音声です。


趙州語録

趙州語録 音声 1
趙州語録 音声 


貫道老師の平常心是道はこちら