21.2.1

「声色堆裏に在りて、声色頭上を行く」(井上義衍老師語録 般若心経P251)


井上貫道老師 ↓

 声色堆裏は日々時々刻々視たり聞いたりする生活を積み重ねている、生活自体が見聞を中心になっている。一方でこの声色は思慮分別を離れた、思慮分別の着かない行為です。頭上を行く、処が目の付け所です。

 
 心経、は自己の説明書であり自己その物を示して余りあるものです。信を能入となすと有りますが、疑いは自分自身を壊すものです。疑いがなくなる、それが信です。騙されるかもしれないと言うのは信じていないと言うことです。でも…。これが魔物です。心意識を用いる前に今この様になっているのでしょう。知って、理解してからの有りようではない。

 
 この言葉は「碧巌録 四十六則」の圜悟克勤禅師の垂示に出ています。

信を能入となす、は 「仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。」
『大智度論(だいちどろん)』(『大正大蔵経』第25巻 p.63)大智度論は龍樹尊者による般若心経の注釈書だそうです。