普勧坐禅儀の中の句。貫道老師のお話                                                                 English


普通に言ったら、今自分が触れている事、自分で見るって言うことだけです。
今自分が触れている様子を、自分が見ると言うことです。
必ず見る方が先で、見た物、その後内容、どうあるかって事が見るから分るのでしょう。そう言う事が回向返照なんですね。後から行う、見るんですね。
最初は見えてる様子がある。聞こえるにしても、皆事実が先にあって、事実に触れた時に自分がどう在るかって言う事が問われている。事実に学ぶって言う事は、そう言う事でしょう。事実の前に事実を学ぶ事はないから、事柄が先に出て来て、出て来ると、その事柄がどうなってるかって事が自ずから分る様になってる。誰でも普通にそう言う風に過ごしてる訳ですね。難しい言葉に聞こえるもんだから、変な訳になってるのかも知れない。音でもそうです。どう言う風に聞こえましたかって言う事は、回向返照でないと分らない。音がしてる真っ只中では、それを見るとか聞くとか判断するとか言う事は入らないから、必ず聞こえた後に、今の聞こえた音の様子をこうやってみてるんですね。そう言う事が皆さんが回向返照を行ってる証拠なんです。
(分ることは理解は入るか)当然理解も入ります。比べて見る、さっきあった物に光を当てて見ると分る。一つには自ずから分る、もう一つは理解を通して分る。理解を通して分る事と実物その物の在り様と言うのは違うと言う事も理解が出来る。

もうちょっと申上げると、坐って頂いてですね、自分の坐っている事に関心がなくて、只坐っている形のまま時間を過ごすと言う事は回向返照にならないね。だから必ず自分の坐って居る様子にきちっと居ないと坐禅にならない。人任せの様に坐った形をそこにおいて、人任せの様にして時間が過ぎれば、坐禅をしたと思っていたのでは、大間違いですね。本当に自分自身の様子がの間ずーっと活動してる訳ですから、その自分自身の活動してる様子にそのまま親しく居ないとはっきりしないでしょう。そう言う事が坐禅をしている中でも如何しても必要なんですね。

これはオリンピア禅センターでの法話での質疑応答の書き起こしです。
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